新マンション事情

危機管理で重要なことは真の情報を嗅ぎわける力と決断力か
過疎の村で村民の命を守るトップリーダーの選択

 例年なら12月は福島の葛尾村で食品加工・販売をしている「おふくろフーズ」へ正月用食品を注文するのが、我が家の習慣になっていた。しみ餅、豆菓子、野菜麺など村の特産物を送ってもらい近所の人達にも分けていた。今年は震災の影響で中止である。原発の20〜30km以内に入り計画避難区域になっているが、飯舘村と同じでまだ帰宅許可が出ない。葛尾村の震災前の人口はわずか1530人の過疎の村である。今回の震災で役場ごと集団疎開を実行したのは葛尾村が最初である。これまでの経緯から気がかりで、村のホームページを見たり、役場や知人に電話をかけ様子を聞いた。驚いたのは村長の決断である。
 3月11日震災直後に葛尾村に入った原発情報は東電や県、国からでなく、東電や協力企業の社員を家族に持つ村の職員や広域消防であった。普通の首長なら公式情報でないとして様子見を決め込むが、葛尾村村長の原発への危機意識は違っていた。3月13日朝から村民や村外からの津波による浪江町からの避難者200人にヒヤリング開始し、150人が移動手段がないことを確認。同日夕方には誘導役やバス運転手15人を指名した。脱出がから騒ぎになるかも知れず、最終決断するにはまだ、迷いがあった。 3月14日午前11時1分、3号機が爆発。3月14日村長から村民に自主避難を呼びかけ、仕立てたバス5台を先頭にして午後10時45分福島市のあづま総合体育館に向かった。事前の準備が迅速な脱出を可能にした。マイカー避難者も含めて15日朝到着。15日朝2号機と3号機が爆発。放射性物質が村に降り注いだのは、多くの村民が脱出した後であった。会津坂下町の公民館が避難先として決まるまでここで一休みし、公民館に到着したのは15日の夜である。その時点で公民館到着者は250人。福島市内公民館や親族宅に身を寄せる人など分散した。限られた時間の中で自分の家族・村民と隣接町村から預かっている避難民の移動だけでなく、村役場の最低限の書類、機器を運ぶ準備をしなければならなかったのだから緊張の連続であったに違いない。村に残ったのは畜産業を営む者、消防団など約60名。国が自宅待機を勧告する前の日の脱出劇である。避難先が決まらないうちに脱出を図ったのだから、15日は朝から多くの自治体に電話し受け入れ先を探したようだ。国や県の支援策が定まらない状況で避難民を真っ先に受け入れた会津坂下町町長の決断も立派である。避難者たちは坂下町の人々から寝具と温かい食事の提供を受けて、涙が止まらなかったそうだ。
 ところで、村丸ごと避難について防災マニュアルがあった訳ではない。チェルノブイリ原発事故を超える事故であったことは、後から報道で知らされた。村民の命を守る一心からの村長の決断だが、人口が1万人を超えていたらはたしてこのような決断ができただろうか。既に13日の時点で隣接町村から村の人口を超える避難者が押し寄せていた村では、その人達を置き去りにして脱出する訳に行かなかったようだ。小さい村が幸いした。
 ところで、仙台市や福島市、郡山市が震災直後停電し電話が不通になったにも関わらず、葛尾村は幸運にも電気も、電話も支障が無かった。村役場から住民に広報するにも、広報受信機が各住宅に設置されていたことも幸いした。既に沿海部の津波被災者は親族を頼って震災直後から移動していたが、葛尾村では震災と津波による被害は殆どなく、村民の多くが緊張感から解放された瞬間であった。迫りくる原発危機について多くの人は予想さえしていなかった。そこに村長からの突然の避難勧告であった。
 その後、8月に村役場は会津坂下町から三春町に完全移動したが、三春町、田村市、郡山市の3地域に全避難住民の85%を集結させる事が出来た。3月11日以降20人が住民票を村外に移し、20人が避難先で死亡した。例年より死亡が多いようだ。家族が引き裂かれた結果、世帯数は震災前の1・3倍になったが、村は全員を把握している。村長は原発事故現場で働く高校生からの手紙を引き合いに「命がけで原発現場で戦っている東電関係従業員に怒りをぶつけないよう」村の4月27日付の村のホームページに村民に要請している。時あたかも国会は権力闘争真っ最中であった。(つづく)

(2012年1月号掲載)
(高崎健康福祉大学教授 松本 恭治)