新マンション事情

72.土地空間は誰のものか/建築自由では景観の保護も創造も出来ない

 ヨーロッパの都市は建物の軒線が揃っていて街路が美しい。外壁は階高を揃え、窓辺には鉢植えの花が置かれ、街並みに美を加えている。倉庫も、学校も、アパートも、ホテルも同じ表情を持たせて、街並みの一体感を強調する。もしこの中にガラス張りで高さも隣のビルと異なる計画が出されたら、景観破壊となるから建築許可は通常下りない。高すぎても低すぎても許可されない。街区ごとに地区詳細計画があり、それに従って建築しなければならない。地区は一体的だから、建物の外壁の手入れを怠っていれば、近所迷惑となる。
 小さな町村でも、建物の景観規制が実に多い。1戸建て2戸建て程度でも、屋根・外壁の色、材質が決められている場合が多い。外壁の色は白が何%以上とか、外壁面は凹凸があって光と影が生まれなければならないとかである。各地域で調達し易い建築材料、気候風土で作られる規則、景観は違うが、日本ほど建築自由な国はヨーロッパにはない。
 さて、その日本だが、昔はどこに行っても統一した景観があった。ところが近代建築技術の発展は、気候風土、伝統、地元建材を無視した建築が可能になった。レンガ造、石造は耐震上禁止されているが、鉄とコンクリートで作ればどのような高さも自由になった。軒線を揃える考えはなく、法定容積・高さ制限いっぱいに建てたら揃う場合があったに過ぎない。そこに規制緩和すれば統一感は失われる。都会か郊外か田舎かの違いはあるが、全国で同じような混乱の景観が出来た。色、建材、高さ、形、配置も自由だから建物の手入れが悪くても自由である。一つ一つの建物を精魂こめてデザインしても、まるでおもちゃ箱をひっくり返した状態である。自己主張の強い建物の集合はむしろ醜態に近い。
 ところで景観保護運動は全国にいくつもあり、伝統的街並み保護運動では成果を上げている。ところが、マンション建設反対運動が多い市街地では、美観論争は多少分が悪い。高層・超高層ビルの出現で、日照・風・電波障害、眺望などは実害が予想されるが、美の基準は立場で異なっている。超高層の設計者・入居者から見れば建物は裏表がなく、どこから見ても端正で壮大で美しく目立ちたいとさえ思っている。周りの低中高層建物の方が醜悪だからそれに合わせる義務はないと考える。これまでに美しい街並み基準を作ったかを問われると、多くの場合はそれがない。従って景観論争は単に異なる美意識の対立になる。実質の争点は被害の有無に集中する。日本の街並みは建築自由が原則で個々に好き勝手な計画をしている。板状の片側廊下の高層マンションは無味乾燥な裏側を市街地にさらけ出している。
 さらに裏側の家はマンションの片廊下を通行する不特定多数の視線にさらされる。低層建物は距離が縮まるから、見られる方はなお不快である。ヨーロッパの地区詳細計画の多くはロの字型の街区建築の中庭に面して階段室や廊下がある。高密度都市に適合する都市型住宅の配置形態が残ったが、日本にはこのような街並みを一体計画する手法も考えも意欲もない。外部企業に決定を委ねるばかりでは文化財として誇りが持てる景観の保護も創造できない。住民自身が決定する仕組みづくりが重要だが。(つづく)



(2013年12月号掲載)
(松本 恭治)