46.仙台市の中心市街地の一次避難所はマンション居住者であふれた
どの地域でも学校や公民館が避難場所になるのは共通しているが、都市部ではマンション居住者で避難所があふれたとの報告を聞いた。
ある避難所では600人の定員に対して2500人が集まった。仙台市青葉区の中心市街地に居住し、震災当初からその避難所でボランティア活動した戸建て居住の主婦、黒沢美智子氏は私の質問に対して、「建物が壊れなくても電気、エレベータが止まった場合は、高層マンション居住者は戸建て居住者より余震に恐怖感を強く感じたようである。理由は地続きの戸建て住宅の場合に比べて高層マンションでは迅速に外部に避難しにくいこと、マンションの倒壊を免れても室内は足の踏み場もないほど物が散乱したこと、孤立感が強かったこと等が原因だ。夜だけ避難所暮らしをする者も多かった。トイレの衛生状態を確保するには学校のプールの水が役立った。青葉区内の複数の避難所でボランティア活動した仲間達に聞くとやはりマンション住民の避難が多かったようだ。中心市街地の避難所には旅行者や帰宅難民、機械式駐車場が動かないため、帰宅できない営業マン、病院から退院したばかりの患者や学生も避難してきたから、市の想定が昔のままで低すぎた。周囲の電気、給水が回復した後も残ったのは身寄りのない独り暮らしの老人や津波で家を流された沿岸の被災者だった」とのことである。
仙台市太白区のライオンズタワー長町(31階建て256戸)に居住の市会議員岡本明子氏へのヒヤリング結果では、「超高層住民が避難所の小学校に行った時には、既に1000人定員のところに2500人の避難者が集まり、後から来る人は次々無指定の施設に押し掛け混乱が起きていた。そこで超高層居住者達は急遽玄関ロビーをマンション住民のための避難所とし、15~16人で毛布や暖房器や各自の自宅に保管してあった食糧を集め、併設の市民センター集会所を借り受け、さらに高層階にそのまま残っていた高齢者を有志住民が訪問し安否確認した後、食糧の分け与え、水の運搬を手伝った。震災の翌日から夫婦とも勤務に従事しなければならなかった場合が少なくなかった。保育所も学校も休止だから、マンション住民が協力して子供を預かった。避難所の学校では夜トイレに行くと、元の位置に戻れない人が多く、戻っても隙間が無くなっていたほど過密状態だった。4日間持ちこたえるはずの備蓄食糧は1日で尽きた。翌日から1回の食事はバナナ1本分となった。行政職員はガソリンがなく動けなかった。食糧不足、水不足が長く続いた」とのことである。
青葉区のライオンズタワー広瀬(21階建て406戸)、太白区の長町外苑パーク(11、14、15階の3棟229戸)も急遽自前の避難所を開設したが、いずれも想定外の対応であった。外苑パークの自主炊き出しは3月20日まで続いた。
東京の都心区は昼間人口が大きい上、巨大マンションも多い。もし、膨大な量の避難民が行政指定の避難所に押しかけたら、社会的弱者は外に締め出されるに違いない。阪神淡路大震災では帰宅難民が生じなかったものの、震災の時間帯で避難所の必要量が変わる。 震災に備えて管理組合は可能な限り自前の避難所確保が必要である。(つづく)
(2011年10月号掲載)
(高崎健康福祉大学教授 松本 恭治)