5.~これまでの30年、これからの30年~その5

明治学院大学法学部兼任講師・本紙客員編集委員:竹田智志

管理者管理の変容

大体、法と現実は若干ながら異なっているか乖離するということが当たり前で、それを解釈によって補っているということなのだろうが、管理者ぐらいは、はっきりさせて置きたいものだ。62年法が範としたのは、ドイツとフランスだとされるから、本来、管理者とは管理のプロフェッショナルだった筈である。
わが国は、数次に亘るマンションブームの中で、区分所有法を踏まえた醸成・浸透を進めるべく場面で、財産的構成部分はスムーズに取り入れられブームを支えたものの、「管理者」を構築する場面が忘れ去られ、時の流れに流されてしまったようだ。いわば本来の管理者は、時代の大きな忘れ物だろうと思われる。

とはいえ、62年法導入の前後につき、マンション管理の現場は一体どんな状況に晒されていたのだろうか。60年代にフィードバックする形で、この辺のところを概観してみよう。
筆者の手元にある資料、文献等ではどうも心もとないが…。

まず、区分所有制度がどのように捉えられていたかだが、有泉亨編「借地借家法の研究」(東京大学出版会・58年)があり、これが最も古い文献の一つである。借家の一亜種としてドイツにおける住居所有権の紹介がなされている。また、65年ごろまでの分譲アパートメント等の実態をまとめたものとしては、阿部醇著「区分所有ビル」(商事法務・65年)がある。さらに、62年前後を通し法学系の雑誌では、新しい権利としての区分所有を取り上げた物が若干ながら見当たるが、要は、この辺の実情を把握するための文献、史料としては余りに少ない。住宅問題全般を把握する「住宅問題講座〈全9巻〉」(有斐閣)が発行されたのが68年。管理実務を含むとなると「マンション建売住宅」(青林書院新社・74年)まで待つことになる。

さて、日本型の管理がどのように構築されてきたか。旧民法208条(明29)の規定があったから、供給戸数は少なくとも62年法の制定までには伝統・慣習のような管理についての不文律があったのではないかと予測される。また売買(分譲)契約書、管理委託契約書のほか管理上の規則等を示したものが配布されたであろうことは推察できるが、手元にあるわけではないので明確に把握することはできない。

そこで、一つの手がかりとして浮上してくるのが、UR都市機構(当時の日本住宅公団)である。公団の分譲マンションは、55年(昭30)から供給が開始される(図表)。55年から65年までの供給戸数は、全国ベースで約1万5000戸。66年から75年までの10年間となると10万戸を超える。

そもそもの管理規約では、62年法における管理者を踏まえ「甲(日本住宅公団)ハ、共用部分ノ管理者トナルモノトシ、管理共用部分ニツイテ次ノ各号ニ掲ゲル業務ヲ行ウ」ものとするとしていたものの、74年までには、「本組合は○○住宅管理組合と称する」。「組合の理事長は団地における『区分所有法(62年法)』第17条に規定する『管理者』となる」と変貌する。政策上の丸投げ体質が既にここにもと云いたい向きもあろうが、ここに現行型管理の原型が登場してきた。(つづく)

UR都市機構の歩み

出典:https://www.ur-net.go.jp/aboutus/history.html

日本住宅公団の住宅供給

集合住宅管理新聞「アメニティ」432号(2018年9月)掲載